能力主義 :-|

評価

最近のビジネスの現場では、能力主義が浸透してきているようだ。簡単にいうと、「デキル人には高い報酬を、デキない人には低い報酬を」ということだろう。確かに、会社という組織において、ある特定の人がいたおかげで売り上げが上がったり、システム開発が成功した、と思える事例はたくさんある。たとえば、社外活動で書籍や雑誌記事を書き、そこからシステムの発注が舞い込んだりすれば、その人のおかげ、ということだ。失敗しそうなプロジェクトを、マネージャの機転や判断で建て直し、黒字にし、顧客から次期案件も受注した、などもかなり高い貢献をしていることになる。そういう人たちに高い報酬を与え、他の人たちにもそのようになるよう、促す、というのが能力主義だろう。単純な理屈で言えばそのとおり、と思う。優秀な人に高い報酬を与えて何が悪い、である。それに他の企業との競争もあり、ヘッドハンティングで優秀な人材を確保するためには、高い報酬を出す必要もあるだろう。逆にヘッドハンティングされないよう、高い報酬を与え、引きとどまるようにする、と言う意味もある。

ただ、その考えは単純なようだが、そのまま推し進めてよいのだろうか。

現在は、政治家たちも「ワーキングプア」の問題をとりあげ、パートと正社員の格差をなくすべきだ、としている。格差が激しい社会では、90%以上の人たちが貧困層で、残りわずかが富裕層となり、貧困層の人はいくら働いても、適切な収入を得ることができないから問題、としているのだろう。これもある意味、同じ能力、同じ働きをした人には、同じ報酬を与えるべき、という能力主義の現われとも捕らえられる。

私も「ワーキングプア」は気の毒だと思う。同じように、正社員だって、職種や業界が違えばまったく異なるし、入った会社によっても格差はかなりあるのは、常識として捕らえられている。それに、同じ組織内であったって、不公平は山ほどある。確かに「ワーキングプア」はあまりに格差が激しすぎるので、もう少し是正しないといけないと感じる。

ただ、それよりも私は、「能力主義」そのものに疑問を持つのだ。確かに、優秀な人材がいるといないではいろいろ差がでてくるだろう。たとえば、松坂投手がいるといないでは、優勝の確率も、宣伝効果もかなり異なるはずだ。だから、高い金額を出してでも松坂投手が必要で、我々では何千年かかっても稼げないような金額をわずか1年で稼いでしまう、という状況になるのだ。

この流れが健全な社会を形成していると考えてよいのだろうか。

結論から言うと、ボクは「一生懸命働いている人には、適切な報酬を与えるべき。」と考えている。それが効果を生まなくても、高い利益を生まなくてもだ。実際、松坂投手だって、恵まれたチームメイトがいなければ勝つことはできないはずだ。(キャッチャーがたとえば捕球できなければ、絶対勝てないだろう。)チームでプレイすると言うことは、みんなで協力して何かを得ることなのだと思う。そのときに確かに、優秀な人がいることが勝利の確率をあげることにはなる。しかし、それだけではない。

システム開発の現場でも、一人の優秀なアーキテクトがいるだけでは、顧客の満足は得られない。もちろん、設計者やマネージャ、プログラマもみな、一生懸命作業しなければよいシステムは作れないのだ。また、直接システム開発に携わっていなくても、間接部門の人だって、影響していると思う。他の人への連絡をサポートしてくれたり、給与のための計算をしてくれたり、交通費精算をてつだってくれたりと。他にも、次の仕事(営業活動)を気にしなくても良いように、間接部門もバックアップしてくてれていたりする。会社に属している場合は、かかわり方はさまざまだとしても、システム開発にもかかわっているのだ。

優秀なアーキテクトが「XXXのアーキテクチャを採用する。」と言ったとき、なかなか現場の理解が得られない場合に、マネージャがうまくメンバを説得してくれるかもしれない。この場合、優秀なアーキテクトだけが高い報酬を得るべきなのだろうか。チームでひとつの目的を目指しているときにたった一人の優秀な人だけのおかけで開発が成功するのではなく、全員で協力しているから、勝利を勝ち取ることができるのだと思うのだ。だから、評価を極端に優秀な人に限定していくような、極端な能力主義はどうも納得できないのだ。

「でも、そのアーキテクトは普段から一生懸命勉強しているんですよ。」

という意見もあるだろう。その間我々はぐだぐだ愚痴を言いながら飲んでいるだけかもしれない。確かにそれで同じ給与じゃ、納得できない、というのも分かる話だ。

で、もっとも根本にあるのは何か、と言うことなのだが、我々は収入のためにだけ働いているのだろうか。そういう考えでよいのだろうか、ということだ。もし、収入のためではなく、「やりがい」や「顧客の喜ぶ顔を見たい」、「自分のスキルが上がること自体が楽しい」、「チームで協力することが楽しい」と感じるのであれば、収入自体におおきな目的を感じなくなると思う。実際、本当に厳しいときに収入のみを考えて作業している人はどのくらいいるのだろう。

ただ、安定した収入がないと、当然収入を得るために仕事をすることになってしまう。そうすると、自分だけは優秀で高い収入を得なくては、という考えになり、徹底的な能力主義をつらぬいてほしくなるのだ。

確かに、ある程度の収入格差は仕方ないし、あるべきだとも思う。いろいろな人がいるし、一生懸命働きたくない人もいるだろう。でも、一生懸命働いて、なんとかシステム開発を成功させようと頑張っているのに、うまく成果が出ないから、と言う理由でその人の収入をさげて、優秀な人だけを厚遇するのが本当によいのだろうか。経済の観点から言っても、富裕層が30億円払って宇宙旅行へ行くより、大量の低所得層が30億円を生活必需にあてるほうが、よほど経済効果は高いのではないだろうか。(ロケット作成にかかわる企業数と生活必需な物資にかかわる企業数との差を考えればよい。ロケットを作るのは大変だし、まったく関連が無いような企業も恩恵を受けることは分かっているつもりだが、それでも同じことは生活必需製品にかかわる企業にもいえるはず。)

たとえば、10億円の豪邸を1件建てるのと、5千万円の戸建てを20戸建売するのとを比べれば、どちらが多くの不動産屋が儲かるのか、と考えてもよい。それぞれに配分される利益は低いかもしれないが、たくさんの人々が5千万円の戸建て20戸のほうがうるおうのではないだろうか。潤う人が多ければ、さらに経済効果は加速する。10億の豪邸をたてた不動産がシステム構築を依頼するのと、複数の不動産屋がそれぞれに少ない利益からもシステム構築を依頼していくのとを比較しても良い。

結局、自分の利益だけを考え、富を集中させても、めぐりめぐって経済が停滞してしまえば、最終的には自分も困ることになるのではないだろうか。それなら、多くの人が幸せになり、突出した自分だけの幸せを求める流れを止めても良いのではないだろうか。その突出した自分だけの幸せを助長するのが、徹底した能力主義だと感じるのである。

だから私は、「一生懸命仕事する人」が好きだし、評価したい。たとえ成果がでなくてもその姿勢が貫かれていけば、いつかは成果も出るだろう。もし、成果が出ないのであれば、それはチームの責任ではないだろうか。今度は、チームでどうすれば成果が上がるかを考え続けていけば、いつかは成果もでるだろう。大事なのは、「一生懸命考え続ける姿勢」で、結果はいつかは出るはずだと思う。

「それで、ビジネスが成り立てば苦労はしない。」

といわれそうだが、一生懸命仕事し、一生懸命考え続ければ、絶対にビジネスも成り立つと思う。実際、「どうしたら売り上げを上げられるか?」などという状況でも、同じように一生懸命みんなで考え、行動するはずなのだから。