評価査定制度はNG、年功序列制度はGOOD! :-)

サラリーマンの給与は最近では、評価査定などと称して、能力や貢献度で給与が決まる制度を取る会社が多くなってきた。以前の日本社会では、年長者が偉く、年長者が組織に貢献してきた歴史も長いため、年功序列の給与制度が実施されていた。しかし、最近では、企業のグローバル化や激しい競争社会に生き残るため、能力の高い人や実際に組織に高い貢献をした人に高い給与を出せば、優秀な人材も集まりやすくなるし、高い給与を得るためにより真剣に業務に取り組むようになるだろう、という考え、能力給や評価査定制度がはやっているように思う。しかし、本当にそれでよいのだろうか。

もともと我々は何故仕事をしているのだろうか。

  • 生きるため
  • 家族を養うため
  • お金を得るため
  • 経済的に豊かな生活を送るため

このような答えが想像できる。しかし、戦後の動乱期や100年以上も昔の、生きるだけで精一杯で他に何もできない人が多かった時代とは違い、現在はニートなどでも生きていくことはできる。そのぐらい豊かな社会になっているということだ。(もちろん、現在の日本において、である。また、本当に生きるだけで精一杯の人もいるとは思う。それらの人についてはこちらのコメント*1を参照してほしい。)そのような豊かな時代に、先の「生きるため、と言う理由を言ってもピンとこないし、本当に生きるためだけに仕事をしている人はどのくらいいるのだろうか。実際には人それぞれ価値観も違うし、求めている豊かさも違うレベルではあるだろうが、最低限生きていくことだけはできるはずだ。

どのように仕事をしても生きていくことが可能なら、我々は何を求めて仕事をすべきなのだろう。やはりQoEL*2を高めるために仕事をしているのではないだろうか。たとえば、宝くじに当たれば、仕事をやめたい、と思う人は多くいるようだが、宝くじにあたり、ただ消費をするだけの人生や、利息などの不労所得だけで生きていくことは本当に楽しい人生だと言えるのだろうか。実際に経験してみると、やはり自分の思ったような生活はできず、不満やいらいらがつのり、結局幸せを感じることはできないだろうと思う。そういう人は、なんらかの趣味や学習を通じて人生の幸せを感じることが重要だろう。

そして、我々は宝くじにも当たらないし、不労所得を十分な生活を送ることができるほどは得られないし、不労所得(特に生活保護)の場合、気持ち的にも満足できないだろう。なので、仕事をするしかない。しかし、仕事を生活だけのためにするような貧しい時代でもないのだ。ならば、我々は自分の人生を楽しく、QoELの高い人生を送るために、仕事と報酬を分けて考える必要があるのだ。

  • 新しい技術を知ることができた、から所得が増えた。
  • プロジェクトが成功した、から給与がアップした。
  • トラブルを解決できた、から査定がアップした。

ではなく、

  • 新しい技術を知ることができた、からうれしかった。
  • プロジェクトが成功した、から達成感を得られた。
  • トラブルを解決できた、から自分の能力がアップした実感があった。

こんなことをもとめて我々は仕事を続けるべきではないのだろうか。これがQoELを高める要素ではないだろうか。

そこに、能力給とか給与査定制度で仕事をお金に変えてしまわれると、我々の純粋な仕事に対する意欲がスポイルされてしまうのだ。すぐにではなく、じわじわと来るかもしれない。しかし、お金を意識して仕事をするのと、仕事のため、自分の満足のために仕事をするのではやはり気持ちには大きな隔たりがある。

なにも、年功序列給与で給与に差をつけるのがよいとは思っていないが、仕事の内容と報酬を分けて考えることを検討してみてはどうだろうか。

*1:たとえば病気の家族のために仕事をしているような人たちだ。そういう人たちは本当に大変だと思うが、今回の議論からはいったんはずさせていただきたい。また、この理論をすすめれば、そういう本当に困った人をたすける手段もべつに提示できるようにも思っている。それはまたの機会に。

*2:Quality of Engineering Lifeの略。質の高い技術者としての人生と言う意味。チェンジビジョン社の平鍋氏の造語と思われる。