和(-_-)

よく日本人は和を尊ぶといわれている。最近はプロジェクトファシリテーションなどといい、エンジニアがチームにおいてやりがいを感じ、楽しく日々を過ごせるように工夫しよう、という流れも出てきている。こういう流れは悪いわけが無い、と思う人が多いと思いますが、私はちょっと疑問も感じている。

というのは、和を尊ぶあまりお互いに気を使い、本音を言い合うことができにくくなっているのではないだろうか。

私は昔から疑問に思っていたことがある。

  • 否定的な意見ばかりいわないでください。
  • 相手をほめることを考えましょう。

こういう流れを加速させると、本当に思っていること、伝えたいと思ったことを伝えることができない場合がある。トラブルを恐れるあまり、意見を押し殺す、これは和を尊ぶことになるのだろうか。自分はたいてい否定から入る。「Aという意見ですが、よろしいでしょうか。」といわれると、自分の心の中では賛成でも、わざと「Bはこういう面がある。Aはここが問題ではないか?」などと会議をまぜっかえすような発言をすることがよくある。実際これをやられると、会議に参加している人の何人かは以下のように思うことがあるようだ。

  • 「またか。めんどくさいな。」
  • 「どうしてあの人はああ、悲観論者なんだろう。」
  • 「どうして和を乱す行動しかできないのかな。」

しかし、私は本当は「A」に心の中では賛成しているのだが、それで本当によいのかどうか、考えてみようよ、といっているだけなのである。特に、簡単に全員一致で決まってしまうようなことは問題が見えない箇所に潜んでいる可能性が高い。まあ、走って早めに失敗すればよいという話もあるが、納得して走りたいのである。自分のなかで少しの疑問がある場合、その疑問を共有しておきたいという要求が高いのだ。

もちろん、「完璧に問題が無いとわからなければ走ることはできない。」といっているわけではない。一度でよいからみんなで悪い面も考慮し考えてみようよ、といっているだけなのである。一度みんなで考えれば、それが納得できなくても「一緒に走りましょう。」ということができる。納得できなければ走ることができない。たとえば、「今は議論する時間が無いので、従ってください。」というのは嫌いだ。(議論が面倒なときの常套句として使われた場合。本当に時間が無ければ仕方ないが、そんなことはほとんど無い。)

実は、最近長い会議を経験したのだが、その場で、必ず否定論ばかりを繰り出す人がいたのだ。正直、自分ですら、「悲観ばかりしていて、先に進めませんよ。いい加減によい点を認めてくれないかな。」などと考えてしまっていたりもした。しかし、この人はあえて批判のために批判をしていたのかもしれない。こういう意見を言う人を排斥しようとは決してしてはいけない。自分は否定から入るので、かなり煙たがられているのだろうが、その私から見ても彼は少し煙たかった。しかしそこまでして異論を唱えるという意識を褒め称えたい。

もちろん、批判はある程度でやめなければいつまでたっても先に進まない。いつまでも自分が完全に安心できるまで批判を続ける、これがいわゆる悲観論者であり、進むべきタイミングを見損なってしまう人を指すのだろう。要はバランスだ。

否定や批判なしにすべてを丸くおさめ、何事も無かったかのようにみんな仲良く和を尊んで進んでいく、こういうやり方は問題がある、とだけいいたいのだ。当たり前、と思うかもしれないが、現実に自分のやっていることを考え直してみると、思い当たるふしがたくさんある。

先日の朝日新聞のコラムにかのカルロスゴーン氏が同じようなことを書いていた。たしか、「Yesマンが多い企業は問題。」「会議中に遅れていくと、急に議論がなくなってしまう。これも問題。」というようなことを書いていた。仲良くやるのもよいが、議論を闘わせお互いにその上で分かり合うのが大事である、という趣旨だったように思う。

最近、和を尊ぶ姿勢が強調されすぎているようにも思う。和も大事だが、あえて白熱した議論をふっかけ、そこから意見の共有を生み出すことももう一度思い出しておきたい。