誉める功罪

以前から、「誉める」をキーワードにいろいろ考えてきたが、「誉める」って本当に良いことか考えてみたい。

単に良いことをしたら、「誉める」ということは「誉める」側にしたらそういう謙虚な気持ちを持つことは大事だと思う。しかし、誉められる側の気持ちとしてはそれは大事なことなのだろうか。

良いことをしたら、誉めてもらう。これはちょっと恥ずかしい場合もあるが、悪いことであるわけがない、とみんな信じているようだが実は、誉める功罪もあるのだ。

以前にも書いた、「学習の動機付け」の話をすると、誉められると言うのは実際の作業に関係のない報酬を得る、と言うことになると思う。

たとえばプログラムを作って、それのデキが良かったら、誉めてもらえた、としよう。それは「誉める」という行為と「プログラムを作る」と言う行為とは何の関係も無いことになる。同じように、良いプログラムを作ったから給与が上がる、というのもプログラムの質には何の関係もない。このように何にも関係の無いものに変化してしまう、言い換えれば、関係の無いもののために仕事をする、というのを「報酬志向」と呼ぶのだ。

それに対し、作業が直接関係のある場合もある。たとえば、「良いプログラムができた。このプログラムが動けば、顧客は満足するぞ。」と思うことはプログラムを作ることと顧客満足は直結している。他にも、「良いプログラムが書けた。またひとつ、自分自身が賢くなった気がする。」というのも、直接その内容(賢くなってうれしい自分)と関係があるのだ。

実際、良くできる人はこのような思考回路で動いている人が多いように思う。特に報酬なんて求めていない人が業務もまじめに取り組むし、学習もするしスキルも高い。だから給与をあげれば社員のスキルがあがる、なんてのはまやかしなんだと思う。

で、先ほどの報酬志向の話。実はこの報酬志向が問題で、人間は報酬を与えるとそれを当たり前と思い、次回もそれ以上の報酬を求めるようになるらしい。逆に、報酬を与えないと、以前より仕事を怠けてしまう傾向もあるのだ。これは以前、心理学の現場で実際にアルバイトの学生を使って実験した結果でも現れているようだ。

この報酬志向は何か作業をする動機づけとしては最低ラインで、「あー、何にもやる気しない。」なんて場合にはそれなりにきっかけとしては有効だろうと思う。しかし、「よし、プログラムが動いたぞ。次のプログラムの実装だ。いい感じだぞ。」と思っている人には、効果がないどころか、逆効果ですらあるのだ。

学習もそうだが仕事も、自分が自ら進んで取り組み、自分自身で喜びを感じることが一番だと思う。しかし、そういう気持ちを持っている人に、「よくできたね〜、えらいね〜。」とか言われると、「はぁ、そうですか。なんか下心でもあるんですか?」と疑いたくなる。どうしても自分自身で喜びを感じられず、どうにもモチベーションがわかないときには、きっかけとして「報酬」を目的にはじめることもありだとは思う。しかし、この行為を誰にもいつでも行うことは却って逆効果だ。

「誉める」は「相手の状態」に応じ、真剣に考えた結果でなければならない。闇雲に誉めるはNGだ。