全日本フィギュア選手権で思うこと

土曜日、日曜日と我が家では全日本フィギュア選手権をテレビで真剣に観戦していた。今回はまれに見る激戦で見ているほうもとても感動した。
選手たちは最もプレッシャーがかかる場面でほとんどミスも無く、それぞれが滑り終えた後、ほとんどの選手が満足の行く顔をしていた、と思う。

オリンピックに出るために、今までずいぶんがんばってきたのだと思う。それを考えると、見ているこちらも感動してしまう。

ただオリンピックという存在とそこに出場することと、スケートをすべると言うことに本来は直接の関係はないはずだ。たとえば、どこか山奥の湖のほとりに住む少女がスケートが好きで、今のフィギュアスケートのようなすべりを一生懸命練習している人がいたとする。そしてその人は、オリンピックで金メダルを取ることができる実力があったとする。しかし、その少女はオリンピックの存在も知らなければ、他の人もその少女の存在を知らない。こんなこともあるかもしれない。(まあ、現実にはありえないけど。)このような場合、上手にスケートをすべることとオリンピックとは関係ないことになる。

つまり、言いたいことは「スケートを一生懸命練習し、上手になる。」ということと「オリンピックに出場する」と言うことは、本来は関係ないことなのだ。(まあ、オリンピックと言う大会の意味からすれば、本来関係ないとは言い切れないが、若干間接的であるのではないだろうか。)

しかし、今の世論はそうはさせてくれない。みんなが期待しているし、マスコミも煽り立てる。そのような中で銀盤の上で華麗な演技を見せる彼女たちを見ていると、少々せつなくもなっていた。そして、「オリンピックに出られなければ、今まで苦労してきた意味がない!」と思ってしまうような流れもあるように思う。

そんな中、選手たちは「楽しんでスケートしたい。」とか、「見てくれる人に感謝して滑りたい。」などと直接オリンピック出場とは関連が無く、スケートそのものに関連のあるコメントが飛び出していた。なんだか世界のトップに行く人たちは、やはり報酬志向ではなく、充実志向や訓練指向が強いのだろうな、と思わせるコメントが多かったように思う。

もっともわかりやすかったのが、一度スケートをやめてしまった選手のコメントだった。「やめて、どんなに自分がスケートを好きだったかわかった。」というのだ。なんだかスポコン漫画のようだが、それがやはり本質なのではないかと思う。

好きだから、滑る。滑ると楽しい。うれしい。

これだけだ。しかしこれだけが人間がもっとも集中し、その分野のスペシャリストになることができる要素なのだと思し、本人も最も幸せを感じることができるのだろう。スケートを継続していれば、つらいことや悲しいこともたくさんあるだろう。しかし、楽しいから続けられる、満足行くすべりができるととてもうれしいから滑り続けることができる。

今回オリンピックに出られるのは3人だけだが、そのほかの人たちもすばらしかった。今回6人に注目があつまったが、それ以外の人もおそらく同じように充実志向で選手権に出場しているのだろ。そして選手権に出場できなかった人も数多く、同じような考えでいる人もいただろうと思う。

テレビを見ていて、なんでこんなに感動的なんだろう、と考えていたが、やはり、選手みんなが真剣にスケートに取り組んでいるのが伝わってきたからのように思う。とすると真剣に業務の取り組んでいるエンジニアは人に感動を与えることができるのかもしれない。

ただ、このような充実志向の人たちに、報酬志向を植え付けるような流れはつくってはいけないのではないだろうか。報酬を与えると、それが麻薬のようにじわじわと、充実志向を食いつぶし、気持ちの上でも報酬があるから、と考え始めてしまう危険がある気がする。そしてそうなっていくと、報酬がなければ次への動機付けがわきにくくなる。また報酬はやはり麻薬のようにだんだんと耐性がでてき、もっと大きな報酬が無ければ満足しなくなってしまう。しかし、すでに充実志向で過ごしている人には、すでに報酬があろうとなかろうと関係ない、という意思ですごせるのだろう。ちょっと問題に思うのは、「オリンピック」ってあまりに報酬としては大きすぎるのではないだろうか。あまりに大きすぎる報酬は危険な気がする。